Sunday, March 22, 2009

八吋

インチという単位に、漢字があるのが驚きだ。センチには無いのに。
それはともかく、先日、うっかり 8 インチで SVGA な USB 接続の
サブモニタ
を調達してしまった。いわゆる衝動買いという奴である。

コンピュータに繋げるデバイスとして FreeBSD で駆動できない物を
我輩が購入することは稀なのだが、これは正にそういう製品である。
プロプライエタリなドライバとセットでないと動かない物体である。

原理主義者である我輩の家には Windows 機など存在しない。そこで
会社置き去りにしている私物マシンに繋げてみた。いい感じである。
ログの tail -f や topas や glance などを置くのにちょうどよい。

シャカリキに重点監視する必要の無い時は、フォトフレームとして
適当に写真でも出しておけば、気分も和む。薔薇星雲など、美しい。
サブモニタ「だけ」にスライドショーを映せるソフトが重宝である。

Monday, March 16, 2009

入浴

首の付け根に傷があり、そこを覆うガーゼにはパッドが貼ってある。
さて、「風呂に入ってもいいけど、患部を濡らしてはいけない」と
無理難題をふっ掛けられた。たかが風呂が、かくも難しいこととは。

会計のおばちゃんに「無理ってモンですよねぇ」とこぼしたところ、
「ラップ巻けばいいのよ」と即答。ドロッピングスケイルフロム眼。
というわけで試してみましたラップ風呂。ヨゥ。ヘィ。チェケラッ。

引っ張っても別に面白くもないので結論から書くと、うまくいった。
人肌にラップを巻くと、とても嫌な音を立てる、という知識を得た。
ラップごときの信頼性では恐くて湯舟には浸かれなかったのが残念。

Friday, March 13, 2009

粉瘤

「ふんりゅう」というものらしい。去年くらいから首にできていた
奇妙な瘤のことだ。特に痛みもない。熱もない。ただそこにあった。
硬くもなく、むにむにとして、いわば、肉球のような感じであった。

悪い奴だという気はしなかったので、放置していた。正確に言えば
意識に上がることもなく、忘れ去っていた。それが作戦?だったか。
先月の後半から、それは急に成長を始めた。張りが出てきた。熱も。

ただ張っているだけならば、我輩も寛大に許してやらぬこともない。
しかし、奴はついにその実力を出し始めた。妙な汁だ。首根っ子の
ちょうどシャツの襟にあたる部分で、うじうじと、滲んでいやがる。

これは許容できぬ、と思いつつ近所の病院をググってみる。どこも
午後にのんびり外来なんか受け付けてない。それなりに打合せなど
仕事のフリもあるので、行けないことにして、誤魔化して過ごした。

カミングアウトすることにして会社で同僚に見せてみる。自分では
見づらい位置だったということもあるが。皆、口を揃えてとっとと
病院に行きやがれチキンめ、と主張する。さもあろう。観念するか。

というわけで病院に行ってみた。その汁は膿が出てきてるのだ、と。
切って出しちゃってもいいし。切る?じゃそこ横になって。お〜い、
局麻。プス。ぐりっ。ぐりぐりっ。ほら、こんな脂の塊が採れたよ。

脂かよ。膿じゃないじゃん。とは思ったが、言わなかった。処置は
ものの数分で終った。医者によると、体質的なもの、らしい。今後
再発する可能性もある、とのことだ。ははぁ、そういうものですか。

瘤の感じから、ガングリオンって奴かと思っていたのだが、それは
違うらしい。「は、そんな珍しい奴じゃないよ」と。大事でなくて
よかったが、ぼちぼち本気で後継者を育てる必要はあるかも知れぬ。

Sunday, March 08, 2009

模倣

伊集院がラジオで言っていたことだが、「直感的にわかってしまう
事柄について説明することは不可能だし、感覚的にわからない人に
それを伝えて、同じようにわかってもらうことも、基本的に不可能」

番組で例として挙げていたのは、彼自身がバスケットのシュートを
何遍やってもできないこと。また、彼自身は直感的にできてしまう
パズルゲームを、彼の後輩は「なぜか、どうしても」できないこと。

この放送は確か二月の最終週のオンエアだったと思うが、偶然今日、
別の記事で「方法依存症」というものを見掛けた。極めて近い事を
語っていると思える。方法論を学習することと、その実践は、別だ。

「方法とは、形式的に明文化されたことばの上に宿るのではなく、
あくまでそれを身につけた人びとの身体に宿るのだという風に捉え」
ること。自転車や一輪車の乗り方などは、正に象徴的にその通りだ。

それを体得したかったら、まずは模倣すること。横笛の鳴らし方と
読みやすいプログラムコードの書き方との間に、どれほどの違いが
あろうか。型を出ることも大事だが、まず型に入ることも、大事だ。

模倣は自分を殺すことを意味しない。思考を停止し、責任を放棄し、
単に「手順」に操られるゾンビになってはいけない。模倣の中でも
手順や思考を吟味斟酌し、主体的に行動するならば、それは自分だ。

しかし、どんなに優れた模倣をしようとも、最後の最後で感覚的に
「わかる」ことは無いだろう、とも思う。我輩自身、S 氏や O 氏、
T 氏や M 氏のような優れた先達を模倣しつつ「わかって」いない。

彼らのように感じ、彼らのように考えることができたら。と考える。
そうできたとしても、別に我輩が彼らそのものに成るわけではない。
それは所詮模倣で、状況によっては単なる劣化コピーかもしれない。

だが、この方法こそが、ある人が直感的に為していることを自分も
できるようになるための最短のアプローチではなかろうか。数多の
模倣のカスタマイズの中に、オリジナリティが生まれると考えたい。